浦安市市民プラザで開かれた「困難を抱える子どもたちに寄り添い続けて」と題した講演会に出た。
長年、児童養護施設で、親から見捨てられ虐待などを受けた子どもたちをサポートしている施設長の話に感銘を受けた。
施設の子どもたちにとって、自傷行為は当たり前。自己肯定感もない。
仕事を持つ施設の子どもに、「今日は休みか?」と問いかけると突然暴れ出す。
一騒動の後、なぜ、暴れたのかと聞くと、以前、親から「仕事もしないで何をさぼっているのか」と何度も折檻を受けたとのこと。
今日は休み?⇒サボっているのか!⇒暴力。大人からの質問は子どもにフラッシュバックを引き起こす。
自分の言葉で自分の気持ちを人に伝えられない。虐待を受けた子どもは、自分の気持ちを人(親)に言うと悪いことが起こるという経験を何度もしている。だから、自分を表現できなくなっている。
………………
塾に通ってくる子どもたちは、養護施設の子どもと正反対。両親の愛情を浴びて育っている。
昔読んだ『アンナ・カレーニナ』に、「すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。」という一節があった。
幸福な家庭で育った子どもは「似ていて」、不幸な家庭で育った子どもは「それぞれ」ということになろうか。
でも、日々、塾に通う幸せな子どもと接して、また、反対に、職業訓練に通う生活に苦労している求職者と接してきて、私の考えはトルストイと少し違う。
幸せも不幸も、「グラデーション」。
世の中に完璧な幸せも、完璧な不幸もない。幸せの中に不幸の影はあるし、不幸の中に幸せの光もあるのでは??
塾に通う幸せの子どもの中にも、ひょっとしたら、養護施設の子どもが持っている「影」が存在している。
この「影」を見過ごさずに、しっかり支援することが大切ではないか。こんなことを強く感じた。
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