入試、真っ最中。
これまでノンビリしていた生徒も、さすがに真剣な表情になっている。
子どもたちは受かりたい、私たちは受からせたい。だから、気持ちは同じ。受験生と講師のやりとりは実にスムースに進む。
しかし、生徒が講師の言うことに素直に従うことなんて滅多にない。ふだんだと、宿題が多いだの、こんなに難しいのはやりたくないだの、生徒は文句ばかり言う。
一方、この時期、私にとっては、一番、アイディアの湧く時。こんな教材を作ったらどうかとか、こんな授業をやったらどうかとか、いろいろ浮かんでくる。授業の組み立てや教材について思いを巡らすのは、ある意味で、一番楽しいひとときだ。
最近は、動画で教材を作ることが多い。今年も、これから受験教材を作ろうと楽しみにしている。ただ、残念なのは時間の制約。入試まで、残された時間はあまりない。
たぶん、作っても全部はとてもやりきれそうもない。でも、まあ、作ることに意義ありとするか。
受験生はがんばっているようですね。センターについてはいつも雪が降っているような印象を受けます。
受験とは言っても、入学式にはみんな収まるところに収まります。決して本番で番狂わせが多発するわけでもなく、最後まで努力した人が、わずか数%だけ偏差値が上昇すれば、大成功だと僕はおもっています。
実力どおりの実績が出せれば成功
浪人の選択か、志望校の中で合格したところから選定するのか、
結局本人の実力相応になります。
すべて不合格ならそれも自分の実力。
試験の世界は外部要因が非常に少ないフェアな世界だと思います。
これが社会人で巨大組織なら、実力以外の手回し、世渡り上手、要領の良い人が勝つわけですよ。決して努力量では測れない要素が多い。
中国で科挙がありますが、これは世紀の大発明だと思います。
非常に平等です。
巨大官僚組織なら、このような公平なシステムを持たないと、多くの人が納得できない。
実力主義と言っても、何をもって実力なのかを説明できる人は居ない。その説明も本当に正しいか証明できない。
さて、話戻って、
真剣な人は、受かるかどうかギリギリの人です。
合格点が70点の試験で、過去門演習をして70点 71点 69点と解いて、本当に合格できるかどうかが微妙な人だけです。
もともと実力が無い人が真剣になっても点数が足りず不合格で終わる。
格闘技や、仕事も、ギリギリで勝敗がつくのが一番エキサイトする。
真剣という言葉は、ギリギリを行く人だけが使う言葉だと思います。
しかし、この真剣も
要するに、試験までに実力を十分に高めきれずにいるだけとも判断できるのです、真剣にやって、ギリギリでは人生計画は立てられません。ある程度のゆとり合格は必要なのです。
私の気持ちを代弁いただき感謝します。受験っていうのは、nakanoさんのおっしゃるとおりのものだと思います。でも、現実の子どもたちを目の前にすると、ご指摘のような冷静さを失ってしまうのも事実です。
毎年毎年、受験生と接し、十分に「学習効果」が上がって冷静でなければいけのですが、受験生あるいは保護者と同じ目線で一喜一憂しています。
でも、一点だけ異論があります。「試験の世界は外部要因が非常に少ないフェアな世界だと思います。」とありますが、残念ながら、高校受験については必ずしもそうではないように思えます。
情報開示が十分ではないからです。このため、情報力で不平等が生じています。塾として、情報を収集するのは当然(やむを得ない?)です。でも、この結果、情報の不平等に加担しているのも事実です。
でも、やはり、せめて受験くらいは公平であるべきだと思っています。
高校入試の最近のシステムまでは私も詳しくしらないもので、失礼しました。