昨日「寺脇研さんを囲む会」が開かれた。
出席者は他塾の塾長など10数名。以前、寺脇氏の講演会には何度が出たことがあったが、直接、話を聞けたのは今回が初めてであった。
寺脇氏は文部省が「ゆとり教育」を導入する際に、スポークスマンの役割を演じた人だ。当時、「ミスター文部省」と呼ばれ、毎日のようにテレビや新聞に出ていたのでご存じの方も多いと思う。
この日は、私的な会合ということもあって、寺脇氏のホンネを聞くことができて大変勉強になった。私自身は「ゆとり教育」そのものには反対だが、文部省側の考え方について理解を深めることもできた。
寺脇氏の話は「今日はイヤなやつがいないから参加させていただくことにした。かつては説明責任があったので、どんな人にも会わなければならなかった。で
も今は違う。とりわけ、×××(実名が入る)の連中の顔は見たくもない。」ということから、今回の人事異動の背景、ゆとり教育の経緯など幅広い範囲にわ
たった。
その中で私の印象に残った言葉を箇条書にする。
- 「ゆとり教育」によって子どもの成績が下がったという人がいる。しかし、「ゆとり教育」をやらなかったらどうなったかということを考えようと
する人はほとんどいない。物事は「やったらどうなった」という視点だけではなく、「やらなかったらどうなったのか」という視点を持つことが大切だ。 - 「ゆとり教育」は1987年の臨教審がすべての出発点になっている。臨教審は3年の歳月と日本の英知を絞った結晶だ。その答申を具体的な姿にしたのが「ゆとり教育」である。
- よく「格差はけしからん」という議論があるが、成熟した社会では格差が生じるのは当然。成熟社会は自己決定の上に成り立つものであり、行政機構が作ったものではなく、自己責任が尊重されるのは当然である。
- 成熟社会では、子どもの成績が富士山型の「正規分布」ではなく、上位と下位の両方に山が出来る「ふたこぶラクダ」型になるのは当然である。
- 学校5日制は、親としてどう対処するか、地域としてどう対処するかという問題であり、これを当時受け入れたPTA協議会の判断はすばらしかったと思う。
- 日本は世界で最も自由で豊かな国だ。だから、子どもたちが「meイズム」になるのは当然。この子どもたちに、擬似的で短期的な不自由を味合わせるのが「総合学習」の目的である。
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