教師のプレゼンテーションにも責任と覚悟が必要だ。それは何かというと、自分の授業で使う「例題や例文」、「解き方や解法パターン」、「解説」が最も合理的なものであると信じること。そして、同時に、自分以外の方法はすべて“誤り”であると断じることだと思う。。
新しい単元に入るときに、教師はその内容をゼロから生徒に説明しなければならない(この新しい単元の「導入」は授業の中でも一番重要な部分である)。その時に、教師は数学なら「例題」を、英語なら「例文」を示さなければならない。
当然ながら、その例題や例文には無数のパターンがある。
例えば、正負の計算を教えるときに、その例題としては、“-4+2”も考えられるし“-4+1”も考えられる。どちらも、答えはマイナスになる似たような問題だ。しかし、例題としては、後者方が優れている。なぜなら、前者の答えは-2となり、ひょっとしたら生徒の中には、設問の“2”と正答の“2”に関連があると錯覚する者がいる可能性があるからだ。
こういうことは「どうでもいこと」ではない。“-4+2”を最初の例題として使うのは“誤り”だと断じることが大切だと思う。なぜなら、教師はもっともわかりやすいプレゼンテーションに全責任があるからだ。だから、「例題」や「例文」選びから、「解説方法」まで、教師はプレゼンテーションに「こだわり」をもたなければならない。
サラリーマン人生において、プレゼンテーションの仕方1つで、仕事が前に進むこともあるし失敗に終わってしまうこともある。教師の仕事も同じはずだ。ところが、プレゼンテーションが下手ゆえに、教師としての社会的生命を失ってしまった話というのはあまり聞いたことがない。
どうも、教育の世界では、プレゼンテーションに甘さが残されているような気がしてならない。
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