講師:山内雄司
日頃いろいろ教えていただいている武術家の先生がいます。といっても、お会いするのはせいぜいひと月かふた月に一度という頻度です。熱心な生徒とはいえませんが、お話からは「うぅんん……」と考えさせられるものが多くあります。最近、お伺いした中では「形同実異」がその1つです。
形や動きは先生とそっくりにしているが、その中身はまったく違う。それが「形同実異」の意味です。これは実際に技をかけると違いが顕著にわかります。先生に技をかけられると簡単に吹っ飛ばされてしまうのですが、自分が真似しても相手はピクリとも動きません。モノマネに過ぎないからです。本人にも「何かがまったく違う」ことはわかるのですが、「何がどう違う」のかはさっぱりわかりません。
しかし、考えてみれば当たり前のことです。先生とは基礎体力も違えば経験も違います。それに、世界観も違えば好き嫌いも違います。形だけ真似たつもりでも中身は違います。
勉強にも同じことが言えるのではないでしょうか。
好成績を収めている友だちと同じ勉強時間を費やしても、結果が同じになるわけではありません。「うちの子はサボっているわけではないし、しっかりやっているのに成績に反映されない。」という話をよくうかがいます。お母さまにしてみれば、なぜだろうと不思議に思うのも当然かもしれません。そして、こういう話になると、よく出てくる結論は「うちの子は要領が悪い」です。
これなども「形同実異」のひとつの例と言えます。目の前の課題に同じ時間をかけても、小さい頃からの勉強への取り組み方や、自分に向いている暗記方法やノートの取り方などの「実」が異なっているのです。同じ結果にならないのは当然です。
では、こういう子は、誰かを見習って努力をしても無駄なのでしょうか? もちろんそんなことはありません。
武術の例えに戻ります。昔の人と現代の人は体力も身体感覚も違います。だから、昔の人の型をそのまま真似ても、同じにはなりません。しかし、考えながら稽古を繰り返すことで、ある程度体力もつき、昔の人の身体感覚を目覚めさせることができます。また、普段から型の稽古で体を慣らすことによって、先生からの口伝をピンと理解できる準備をしているのです。体ができないと、先生からの口伝を受けても理解したり吸収したりできません。
勉強も、「まずあの人と同じ時間をかけてみよう。」「あの人が例文を全部書いたのなら私も書こう。」としていくうちに、勉強体力や重要フレーズを少しずつ身につけていくことができます。勉強体力の身についていない子どもに要領・コツを教えても意味がありません。要領・コツを受け入れる準備ができていないからです。
昨年、伸栄学習会の生徒たちと鎌倉探索に行きました。覚園寺という美しい庭のある寺院を訪れたときに、住職からこんな言葉を伺いました。
「仏様のようになりたいと思っても、どうやったらなれるかはわからない。だから私たちは、まず仏様のように座り、仏様のような手の形をし、仏様の話された言葉をそっくり真似する、そこから始めるのです。」
初めはモノマネでもいいのです。堂々とモノマネから始めてください。
それでも、あまりにも方向性が間違っているというときは私たちにお任せ下さい。それこそが私たちの仕事です。