2000年11月号……『言を察して色を観る』 塾長/青沼 隆
最近、テレビや新聞などで「学力低下」問題が盛んに取り上げられています。「学力」をどう定義するかは極めて難しい問題で、学者の間で果てしない論争が続いています。ただ、いわゆる「読み、書き、そろばん」を学力と定義するなら、子どもたちの学力は間違いなく低下していると思います。
しかし、最近、もう1つ気になる現象があります。それは、いわゆる「感じる力」も落ちてきているのではないかと思うことです。「感じる力」とは、“自分の気持ちを自覚したり制御したりする力”、あるいは、“自分のおかれている立場を客観的に把握する力”といってよいと思います。例えば、今日も、車を運転中に2つの不愉快な出来事がありました。
1つは狭い道を自転車が2台並行しておしゃべりしながら走っている光景、もう1つは、茶髪・ガングロ・厚底サンダルの女性が、歩道を歩かないでわざわざ車道を歩いている光景です。厚底サンダルの女性の歩き方はいかにも不安定でした。ですから、結局、追い抜くことができず従わざるを得ませんでした。もし、よろけでもしたら、避ける自信がなかったからです。たぶん、この人たちは“悪気”はないのでしょう。自分が他人に迷惑をかけているなんて全く感じていないでしょう。ひょっとしたら個人的につき合うと“良い人”かもしれません。でも、迷惑な人たちです。
自分の行動が周囲にどのように映っているか、感じ取ることができないのはさびしいことだと思います。1つ1つ指摘されないと自分の行為の影響がわからないのは悲しいことだと思います。論語の中に、私の大好きな一節で、「言を察して色を観る(人の言葉をよく察して人の顔色を見抜く)」(顔淵第十二)というのがあります。人の言葉は単に文法的に受け取るのではなく、その言葉の背景までを想像しながら聞き取るべきだ。人のちょっとした表情には無限のメッセージが含まれている。言われなくてもそのメッセージを受け取らなければならない……という意味と理解しています。今の多くの子どもたち(一部の大人も?)は、ともすると周囲に配慮することなく、法やルールにふれない限り気ままに振る舞っても構わないと感じているようです。とんでもないことだと思います。孔子の2500年前の戒めは現代においても十分通用すると思います。
ただ、この種の問題は難しい問題です。、例えば、塾の中にあっても、皆が集中して教室全体がシンとしているときには、ちょっとした小さな話し声でもとても迷惑になることがあります。同じ話し声であっても、場面が違えば大して邪魔にはならないこともあります。同じような話し声ですので、このへんの微妙なニュアンスを説明するのはとても困難で
す。子どもは言い訳をいくらでも考えます。しかも、1つ間違えると、「あの人には注意しないのに、いつも自分ばかり注意する」と“差別”と捉えられることもあります。こうなると、もう議論にはなりません。「感じ方」の問題を言語化するのは限界があるからです。
どうしたら、子どもたちの「感じる力」を伸ばすことができるのでしょうか。正直なところ私にはよくわかりません。ただ、原理原則を貫き、私たちが“ウルサイ”と感じたらすぐに注意すること、もう1つは、私たち講師自身の感性を磨く努力を怠らないことは重要なことだと思います。………しかし、エラソウなことを書いてしまいました。どこからか、オマエこそ迷惑なヤツだという声が聞こえてきて恐ろしい気がします。