2000年10月号……『英語教育』 塾長/青沼 隆
英語の教育を巡りさまざまな意見が飛び交っています。「中学、高校、大学と10年にわたって英語の勉強をしながら使えるレベルにならない。これは、学校のやり方が悪いからだ」「受験英語という“死んだ英語”ばかりやっているからダメなんだ」「中学からでは遅すぎる。小学生からやるべきだ」「読んだり書いたりすることよりも、聞いたり話したりすることが大切だ」………と、実に、さまざまです。
集約すると、“要は学校の英語教育が間違っている”というところに落ち着きそうです。このため、文部省も、10年ほど前から「使える英語」を標榜して、英語の教育を大きく変ました。すでにお気づきの通り、昔と今とでは英語の教科書の中身が全く違います。論説文は影を潜め、文字数の少ない会話文で構成されています。授業で、文法を体系的に習うことはありません。
この結果、全般的な学力低下の問題も相まって、be動詞と一般動詞の区別があやしい中学3年生や、三単現と複数の“s”の違いを知らない高校生にも驚かなくなってしまいました。先日は、何と、受動態と関係代名詞を理解していない早稲田の学生にも遭遇しました。「使える英語」という表現は美しいのですが、使える以前に、基礎でつまずいている子どもが多数いるのが現実です。
原因はいくつか考えられますが、特に、次の2点は重要だと思います。1つは、これは英語だけに限ったことではありませんが、教育の世界では、ある1つの特殊な事例があたかも普遍性を持つかのように語られることです。一番、典型的なのはいわゆる“エライ”人の経験談です。「自分は××の経験をした。だから、日本の教育は〇〇であるべきだ。」という類のものです。たった1つの事例が全体を反映するとは限らないのは常識以前の問題です。しかし、なぜか、教育の世界ではこれが幅を利かせ、誤った方向にリードします。
もう1つは、到達レベルをはっきりさせないまま議論を進めていることです。例えば「使える英語」とは何かです。海外旅行のときに、困らない程度という意味なのでしょうか。それとも文化や政治を語ったり、あるいはビジネスの第一線で通用する英語という意味なのでしょうか。同じ英語といっても意味は全く異なります。海外旅行で食事をしたり買い物する程度の英語なら、極端な話、身振り手振りでも可能です。一方、ビジネスで使える英語は生半可な努力では身につきません。もちろん、学校の英語の目的は、身振り手振りでもなければ第一線の英語でもありません。ただ、問題なのは、議論が錯綜する
中、文部省流の英語がますます子どもたちの力を弱めていることです。
すべての学問がそうであるように、英語も基礎基本がすべてだと思います。英語においては文法と単語・熟語力です。何も今すぐ全員がペラペラになる必要はありません。音楽の授業の目的が、ベートーベンのピアノソナタを弾けるようになるのではないのと同じです。ただ、最低限、英語の基礎基本を習得して、言語を通じて異文化の息吹を感じ取って欲しいと思います。そして、できればいつか、英語を本気になって勉強して欲しいと思います。今の勉強の目的は、その時にスタートを切れる態勢を整えることです。三単現のわからない人が、将来、英語を本気になって勉強する確率は低いと思います。
放っといたら子どもたちは勉強しません。英語のみならず、もっと叱咤激励しなければならないと考えています。