2001年1月号……『新世紀の教育』 塾長/青沼 隆
21世紀が幕開けしました。今世紀は前世紀に増して変化のスピードが高まるようで
す。学校や塾や教育システムも大きく変わるものと思います。教育や勉強の本質はいかなる時代にあっても変わるものではありません。しかし、教育の方法・勉強の道具・指導の方法などは、世の中や子どもたちの変化に合わせて変わるものですし、変えていかなければならないものです。ところが、現実の教育現場は百年前とあまり変わっていません。あいかわらず子どもたちは、学校で黒板を背にした先生の授業を聞いています。「黒板」や「一斉授業」は明治時代の最新テクノロジーです。子どもたちは時代の先端を走る宿命を負わされています。しかし彼ら彼女らがもっとも時代遅れに空間におかれていることは、考えてみれば不思議なことです。
「教える」ことの先にあるもの
今年の当学習会は、“変化する塾”でありたいと思います。20世紀に培われた塾のイメージを積極的に切り捨てていきたいと考えています。そして、何よりも最初にやらなければならなことが、「教える」ことからの脱却だと考えています。子どもたちに知識を伝授する教育は20世紀の中頃に終わったと思います。今の子どもたちには断片的な知識の先にあるもの、例えば知識の活用方法や知識の習得方法を教えなければ意味がないと考えます。
「教える」ことが意味を持ちえたのは、日本がまだ貧しかったときの話です。貧しい時代の子どもたちは、将来の生活に対して危機感を持ち、知識に対しても貪欲でした。その時代の子どもたちは、手を貸さなくても1の知識を2にも3にもしようとしました。しかし、今の子どもたちはその反対です。生活に対して危機感がなく知識に対しても貪欲さがありません。1の知識は1のままで、それも放っておいたらやがてゼロになります。ですから、今の子たちには1の知識をを教えることよりも、その1の知識を2や3に活用する方法と、自らの力でゼロから1の知識を修得する方法、すなわち「知的なトレーニング」と「学び方」を体得させる必要があります。
3つの方針
「教える」塾から脱却するために次の3つのことを行う方針です。1つ目は教材類の拡充です。「教える」ための教材と「トレーニング」するための教材は違います。教えるためには、例えば教科書などが有効です。しかし、「トレーニング」したり「学び方を学ぶ」教材としては教科書は不適切です。説明が不親切ですし問題量も少なすぎます。一言で表現すれば、紙とエンピツだけの時代は終わったと思います。
子どもたちが自分で学ぶには、紙に書かれた文章だけでは不十分です。音声と映像やデータベースが必要です。パソコンなど最新機器を駆使した教材でなければ、自学自習を実践していくことは不可能です。しかも、これらの機器を使えば、いちいち先生の指示を仰がなくても自分から学習を進められます。今の子どもたちは自分の判断で行動することを好みます。他人から細かなことを言われるのを嫌います。子どもたちの自主的判断力を高めるにも、ハイテク教材は不可欠と考えます。
第2に子どもたちの意識改革です。「受け身」の学習姿勢を排して「能動的」学習を身に付けていただきたいことです。未だに、「塾はわからないところを教えてもらうところ」と考えている子どもたちがいます。しかし、塾は受け身の姿勢で「教えてもらう」ところではなく、自ら能動的に「トレーニングするところ」「学び方を学ぶところ」でなければなりません。もちろん、わからないところは指導します。しかし、それだけで終わってしまったら意味がありません。わからないことをわかっただけでは、使える知識にならないからです(先に書いたとおりです)。
この意味で、子どもたちに姿勢を変えてもらい、併せ、古くさい学習塾のイメージを一新するために、階段の踊り場にミラーボールを取り付けました。塾とミラーボールというのはもっともそぐわない組み合わせだと思われるかもしれません。眉をひそめられる方もあると思います。しかし、主役は生徒一人ひとりだということをこのミラーボールに象徴させたいと思っています。催事場の主役はお客たちです。当学習会でも主役は教師ではなくて生徒たちです。
最後に、私たち教師の意識を変えたいと思います。「わかりやすく教える教師が良い教師だ」という時代はもう終わりました。手取り足取り教える教育も時代遅れです。それよりももっと大切なのは、私たちの判断力を高めることだと思います。日々の学習は子どもたちの自主性に任せつつ、子どもたちがわからなくなったときや、困ったときに適切な指針を与えることが私たちの役割だと認識しています。そのためには、教科の内容にさらに精通していくことが必要です。そして、私たち自身がもっと幅広い教養を身に付け、大きな目で精緻に子どもたちを育てていくことが大切です。私たち自身も子どもたちに負けないように勉強を続ける所存です。