2007年11月号……『先生』 塾長/青沼 隆
一体、先生とはどんな存在なのでしょうか。先生は生徒という存在があってはじめて先生になります。ただ、先生を定義しようとすると、案外、難しい気がします。ちなみに手許の辞書(岩波『国語辞典』)を引いてみると、先生=「教師・医師など学識のある、指導的立場にある人。また、そういう人、自分が師事する人に対する敬称」、ついでに、教師を引いてみると、「学業を教える人、先生。」とあります。
何だか、わかったようなわからないような定義です。へ理屈になるかもしれませんが、学識のある人は誰でも先生になり得るのでしょうか。どうもそうではなさそうです。もっと別な要素、例えば、リーダーシップや思いやりなどが必要そうな気がします。
何でここで「先生とは………?」ということを問題にするかというと、塾の中で子どもたちと接していて、なぜ、子どもたちが私たち教師の指導に従うのか、少し妙な気持ちになることがあるからです。例えば、私が塾の教室ではなくて、電車のプラットホームにいたとします。その時に、周囲にいる子どもたちに、「ゴミはゴミ箱に捨てろ」と言ったとします。彼らは、私の指示に従うでしょうか。
下手をすると、殴られるかもしれません。そこまでいかなくても。言うことを聞かせる確率は限りなくゼロに近いように思えます。では、プラットホームの子どもと塾の子どもとはいったい何が違うのでしょうか。
マスコミ報道によると、一部の学校では「学級崩壊」が起きていると言われます。学校内にあっても、先生の指示に従わない子どもは現実にいるようです。そして、学級崩壊はベテランの先生のクラスでも発生しているとのことです。その先生の技量や人間味の乏しさが原因でしょうか。
どうも、先生と生徒の関係は、辞書が示すように「学識」とか「指導的立場」などとは別の要素があるように思えてなりません。
最近、何となく感じているのは、それは「タテマエ」に近いものではないかということです。つまり、生徒は、本当は「その先生を尊敬しているわけでもない」、「その先生の言うことを信じているわけでもない」、でも、これは暗黙のルールとして、あるいはタテマエとして、「その先生の指示に従う」少なくても「信じたふりをしよう」という力が働きではないかということです。
もちろん、このように考えることに、現職の教師である私が、「それでよし」と認めているわけではありません。(いや、正直に言うと、「そんなはずでいいわけがないだろう!」という感情が走り出しそうになります)。
でも、この「タテマエ」というのはとても大切なような気がします。もし、生徒が「尊敬できる人間だけを先生として認めよう」ということになったら、恐らく、学校が崩壊するのは明らかです。塾は生徒や保護者から選ばれる存在です。そんな塾であっても、その多くは崩壊してしまうような気がします。
このように考えてみるといろいろなことが浮き彫りになります。その1つは、果たして子どもである生徒が、「尊敬できる人間」を客観的に選別することができるのかどうか、もう1つは、誰が、あるいはどのような仕組みが、「タテマエ」をルールとして生徒に認識させて強制力を持たせるかという問題です。
前者の子どもの客観的な判断力はここではいったん置くとして、後者の強制力について考えるとすると、恐らく、塾の場合は、保護者と塾との「信頼関係」に行き着くように思えます。もちろん、生徒と教師の信頼関係は重要です。子どもにとって、信頼できる教師であること、魅力ある教師であることは必要です。
しかし、それはそれとして、学校では言うことを聞かない子どもであっても、塾では素直、というのはよくあります。なぜ、塾では素直なのでしょうか。その答えの1つは先に述べた「タテマエ」ではないかと思います。では、なぜ、タテマエが有効に働くのか。それは、子どもを取り巻く環境が、子どもにある種の作用を及ぼすからだと思います。
くり返しになりますが、塾にとって子どものとの関係は大切です。でも、もっと大切なのは保護者との関係です。保護者との信頼関係が失われれば、多くの場合、塾は子どもに対する教育力を失います。私たちは子どもはもちろん、保護者のご期待に応えられるように努力を続けなければならないと念じております。