2011年3月号……『カンニング』 塾長/青沼 隆
京都大学の入学試験でインターネットを使ったカンニングが発覚して大きな話題を呼んでいます。
私の学生時代にも、カンニングをしている人がたくさんいました。その中には、発覚して大きなトラブルに発展したケースもあります。残念ながら、塾のテストでもカンニングを行った子どもがいました。恐らく、人類の歴史上、試験とカンニングは、切っても切り離すことのできない関連があるのではないかと思います。
今回のカンニングについては、警察の介入や罪の程度などを巡り、ネットを中心に論争が起きているようです。私自身はカンニングは許される行為ではなく、厳罰が下されるのも当然と考えます。ただし、極悪非道人扱いしている一部マスコミ報道には如何かものかと感じています。
それはそれとして、「試験」という前提を外したときには、カンニングという行為は別の意味があるのではないかと考えています。大前研一氏が彼のメーリングで面白いことを主張しています。
(私は)「カンニング」を推奨しています。なぜなら、学校を卒業して社会に出たら、「カンニング」した者が勝つからです。例えば、事業を興そうと思えば過去の事例をくまなく調べて参考にするでしょうし、同時に競合他社の状況についても徹底的に調べるはずです。これらの行為は「カンニング」と同様です。<中略>「カンニング」をして自ら情報を収集し、その得られた情報から、最後は自分自身の頭で考えてまとめ直し、「これが一番だ」と思えるものを実行に移すというスキルであり、行動力が求められているのです。
大前研一氏の意見に賛成です。「わからないことは質問する」というのは、仕事や社会生活を営む上で大切な手法です。自分の知識には限界があります。より良く生きるには他人の知識が絶対に必要です。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」「人脈を作りなさい」という教えもこの延長線上にあるのではないかと思います。
このように考えると、「試験」ではカンニングは許されないが、逆に言うと、試験以外の場面では「カンニング」は許される、いや、それどころか、大いに推奨される、となります。一方、子どもたちには、「カンニング=悪」という図式が根付いています。もちろん、それはそれで正しいのですが、試験を別にすれば、必ずしも正しくないということになります。
子どもたちの多くは、自分で判断できないことやわからないことの対処方法が不得手です。部活のこと、友人のこと、勉強のこと等など、子どもたちは、子どもなりに多くの悩みを持って生きています。そして、子どもたちの多くは、必要以上に悩みを自分で抱え込んでしまう傾向があるようです。
他人の知恵を利用すれば、解決に近づける場面もたくさんあります。もっと、「カンニング」を推奨すべきかもしれません。