2009年3月号……『もう1つの物差し』 塾長/青沼 隆
先日、ひろさちや氏の講演テープを聞き、面白い言葉に出会いました。「もう1つの物差し」という言葉です。ひろさちや氏は宗教評論家として、多数の宗教解説書を執筆しています。著名な方ですので、すでにご存じの方も多いのではないかと思います。このテープも宗教全般にわたり、その意義などについてわかりやすく解説していました。
氏は、人間にとって宗教がなぜ必要かという点について、「もう1つの物差し」という言葉を使って説明しています。物差しとは価値観で、人間はある価値観を持って生きている。それは、ある人にとってはお金であり、名誉であり、または人間関係かもしれない。しかし、いずれにしても、それらは、現世(この世)にまつわるもので、この価値観だけに頼っていたら、死に際、自分の人生をふり返ったとき、「こんなはずではなかった」と、後悔することになるかもしれない。宗教の意義は、既存の価値観に、もう1つ全く別の価値観を付与すること………という趣旨でした。つまり、「もう1つの物差し」とは、現世とは別次元の価値観、神や仏、あるいは来世の価値観という意味のようでした。
宗教の意義についてはさまざまな見解があり、氏の見解が一般的なものかどうかわかりません。ただ、私は、この日、この言葉に触れて、直感的にピンとくるものがありました。それは、母親は、ひょっとしたら、宗教とは別次元で、すでに「もう1つの物差し」を持っているのではないか、というものでした。
塾では母親と面談する機会がよくあります。1時間以上に及ぶこともあります。塾ですので、話は、成績とか入試とか、勉強に関することが中心になります。ただ、話を聞けば聞くほど、本当のご心配はそこではなく、もっと先にあるように思えることがあります。上手く表現できないのですが、その根本は、成績や入試といった具体的なものに留まらず、もやもやとした漠たるもの、その「漠たる不安」が、必ずしも、母親がお持ちになっているオモテの価値観では収まりきらないのではないか、と思えることです。
母親は、恐らく、子どもがいくらお金持ちになっても、いくら名誉を得ても、それだけでは満足しないように思えます。もちろん、お金や名誉もあればそれに越したことはありません。しかし、本当に求めているのは、子どもの永遠の「幸せ」ではないでしょうか。そして、その「幸せ」は、ここまでいけば満足できるというものではなく、どこまでいっても満足しきれないもの、ひょっとしたら、この世で達成される「幸せ」のレベルを超えているように思えます。
この母親の求める「幸せ」の根源をたどっていくと、ひろさちや氏の言う「もう1つの物差し」ではないかと思えてならないのです。つまり、母親は、意識するしないに拘わらず、わが子に対する思いの中に「もう1つの物差し」を持っているのではないか………というのが、この日の私の結論でした。